先月のゴー宣道場の際、実は父が急性肺炎で危篤状態にあり、小林さんにも、もし何か急に呼び出されたら、道場本編だけで失礼するかもしれないとご相談し、理解頂いたのですが、幸い持ち直しました。その後の報告をしないまま今日にまでなって申しわけありません。
その後母も肺炎に罹患し、この一カ月、一人息子の私の方も病院と行ったり来たりで、既にやる事になっていた仕事もその内訳を見て先送りが出来るものは先送りするというかたちで対処したため、なかなか時間が取れず、道場のブログも書けずにいましたが、小林さんが目になさったメルマガ「映画の友よ」は私が有料で月二回出しているもので、なんとか時間を捻出し6月の最終日に間に合わせたものです。
加えてそれが、小林さんが読まないと決めた元少年Aの本についてという「道場のブログを書かずにこの内容か」というものであった事で、ガックリさせてしまったのをお詫びいたします。
元少年Aの本に対する礼賛記事という、小林さんからもそう見える記述になってしまった事は、小林さんがブログ末尾に警告されたように、己の行いとして充分に気を付けなければならなかった事です。
私が少年Aの本のあるくだりで思わず泣いてしまった事、残り数十ページの段階で「読み終わりたくない」と思ってしまった事は、それをそのまま記せば、礼賛記事に捉えられかねない事は、もっと考えるべきでした。
たとえ凡庸ないしはそれ以下の小説や映画でも、一か所や二か所は涙腺が緩む事もあったりするし、最後どうなるんだろうと目が離せなくても最後まで行き着くと「なーんだ」となるものだっていっぱいある。だからそれをもって傑作だとかよく出来ているとかいう事にはならないと、誤解が生じないよう付記する事は、特に今回の場合必要であったと思います。
ゴーストライター説については、文春の記事では、太田出版で決まる以前、幻冬舎社長の見城さんと元少年Aのあいだで原稿のやりとりがあり、見城さんの直接の指導で本人が粘り強く直したとあったので、それを鵜呑みにしてしまいました。
たしかに、その見城さんでさえ結局自分のところでは出さなかったのですから、太田出版で引き取る際、別にライターを立てて全体を読みやすくリライトした可能性を……当事者は否定してはいても……一種のメディア・リテラシーとして疑ってかかる事は、必要だったかもしれません。
また、私自身の個人的事情はメルマガの文章では載せませんでしたが、両親の危篤状態および入院で、いままでそこまで大きくは感じてこなかった「命の尊さ」を遅ればせながら実感するという私の親不孝息子としての思いゆえ、元少年Aの手記にある、迷惑をかけた肉親への懺悔の気持ちが生まれる事で「命の尊さ」を再認識していくプロセスに少しほだされる余地が出てしまった事も無関係ではないかもしれません。
しかし、最も悲しいのは、最愛の子どもを理不尽に奪われた被害者遺族の方々であり、そのお子さんたちは、成長して親不孝を後悔する権利さえ奪われてしまったのですから、加害者側に、特段の共感が生まれたような印象を与えるのは、やはり倫理を欠いた行為であると思われても仕方ありません。
今回私が、先述したとおり身辺あわただしい中でも手記を読んだのは、事件当時発言した者として、読まずにすますのはどうかという思いからでしたが、そもそも出すべき本ではないから読まないという判断に対して、異論を述べる為の読書ではありませんでしたし、あるいはもし、事件当時は積極的に発言していたのに今回は口をつぐんでいるという人がいたとしても、その人の事を否定的に思う事はありません。
いま思えば、病院に通っている間も一日4、5行でもその身辺雑記プラスアルファでもいいからと開き直って道場ブログを書かせて頂いていれば、その都度もっと血の通った発信が出来たかもしれないと反省しております。